「胃ろうについて」 報告と雑感

(室蘭登別食介護研究会 第2回研修会 (2014.1.29))

 

2014129日(水)、第2回研修会では、「胃ろうについて考える〜知識と適応を中心に〜」というテーマで研修会を行いました。

まだ開始より日も浅く、主として皆川の方からの「講習」という形をとりました。

 

胃ろうについては、私自身の中ではもう長い長いテーマとなっており、数年前に一度、「胃ろうという病」というタイトルをつけて、まとめたものがあります。どこかで出版してくれないものか、と数件当たってはみましたが、無名の一医者のお願いなど聞いてくれる出版社のあるわけもなく、「お蔵入り」となっていますが、自分としては、このように考えをまとめておくことはやはり有意義なことで、あちこちの研修会やら講習やらで利用はしてきました。

今回、室蘭登別食介護研究会の研修会でも、この蓄積の中から講習を行いましたので、この機会に、この「胃ろうという病」も、当ホームページで公開したいと思います。少なくとも、5年前くらいまでの、胃ろうを取り巻く状況と、私自身の思いを、その時点で網羅した内容になっていますので、ご参照頂ければ、と思います。

 

ここでは、ここ最近の胃ろうを取り巻く状況について、あらためて数点に分けて論じたいと思います。あくまで、ここ数年の状況に絞って論じるつもりです。それ以上の細かい議論については、上述の、「胃ろうという病」をご参照ください。

 

@     ここ数年の、いわゆる「胃ろう問題」について

A     2014年診療報酬改訂と胃ろう

B     胃ろうについての思い

 

について、まとめてみました。

 

 

@   ここ数年の、いわゆる「胃ろう問題」について

「胃ろう問題」

 私自身は、上記のとおり、ここ20年にわたりずっと胃ろうの問題を心に留めて、考え続けてきたつもりですので、ここ最近「胃ろう問題」と言われるようになっている、ということ自体が、逆に不思議な気がしています。また、この「胃ろう問題」という言葉が、具体的にどういった内容を指しているのか、ということも、今ひとつはっきりはしません。が、私なりにずっと自分が抱えてきた問題意識を踏まえて、ごく簡略化して言えば、胃ろう問題、とは、「ある患者に対して、胃ろうを造るべきか、造るべきではないか、ということについての、適応、の問題である」、ということだろう、と思います。

 適応、という言葉は、医療分野の用語、としては、一般の方にはあまり馴染みがないかもしれませんが、個々の患者さんや、あるいはその状態、病名、等に対して、それぞれの治療法や検査などの医療技術が、「妥当」であるかどうか、ということを意味します。日本の場合には、医療は主に健康保険によってまかなわれていますので、保険の現場では、医者の行うひとつひとつの検査や投薬に対して、それが妥当であるかどうか、すなわち、「健康保険の適応があるかどうか」がチェックされることになります。単純な例では、血圧を下げる薬、降圧剤、を医者が処方するためには、その患者さんが、実際に血圧が高い、ということを示すべくカルテに記載して、「高血圧症」といった病名をつけることが必要になります。すなわち、私たち医者は、自分が行っている全ての医療行為に関して、常に「適応」のことを考えながら(あるいは、身についたものとして普段は意識すらせずに)仕事をしている、ということです。

 繰り返しますが、「適応」の問題は、医者が行う全ての医療行為に関して、必ずついて回るものです。検査をする、と言えば、その患者さんについて、何らかの疾患を疑ってかかるので、そのことを確認するために検査をする。あるいは、ある病気の推移や、治療の効果を確認するために検査をする。投薬や手術のような治療行為は、それを行うに妥当な病気があるから治療を行う。言い換えれば、「適応」とは、全ての医療行為について回る、「妥当な理由」です。

 だからこそ、「胃ろう問題」が、その「適応」の問題、すなわち、「どんな患者さんに胃ろうを造る、という治療を行うべきか」という問題だ、とすると、これは、何もいまさらあらためて大きく取り沙汰するようなものなのか、とさえ思われてしまう、のも、正直なところなわけです。

日本で、内視鏡(胃カメラ)を使って、外科手術に比べれば容易に胃ろうが造られるようになってから、もう20年以上になります。20年も行われてきた医療技術に関して、今になって「適応」の問題が出てくる、ということ自体、どうかしている、っちゃあどうかしている。でも、これが現実なわけです。

 

なぜ今、「胃ろう問題」か?

 とまあ、そう書いてはみましたが、多分に「愚痴」「嫉妬」といった要素が大きいかもしれません。私はずっと取り組んできたつもりだったけど、誰も相手にしてくれなかったもんで。

2010年のNHK「食べなくても生きられる〜胃ろうの功と罪〜」という番組で採り上げられたことが、ここ最近「胃ろう問題」と言われるようになった発端だ、ということは、一般的に言われています。やっぱり、天下のNHKが発信するくらいでないと、一般的な認知は進まない。ここで登場していた医師は、ずっと内視鏡的胃ろう造設を続けて来られた先生だ、とのことでした。この先生ご自身は、容易に胃ろうを造れるようになって、信念を持って造り続けてこられたが、ご自分も歳をとって来られ、はた、と周りを見回してみたら、果たして自分が造り続けてきた胃ろうは、正しい適応と呼べるのだろうか・・・と。私なりに勝手に解釈してしまえば、この番組は、そういう番組であった。否定的に捕らえようとすれば、最先端で胃ろう造設をリードしてきた医者にして、この程度の認識で造ってきたのか!ということになるし、肯定的に捕らえようとすれば、よく振り返ってみる気になった、ということでしょう。

 

ごく単純に言えば、「胃ろう」を造る適応患者は、「食べられない方」ということになります。このこと自体には、大きな反論はないでしょう。では、なぜ今わざわざ胃ろう問題、といって採り上げられることになっているのか?いったい、何が問題なのか?を、私の思うまま、以下に列挙してみます。

 

1)「食べられない」ということを診断することは、難しい。

私は、摂食嚥下リハビリテーション、すなわち、「現時点で、口から食べられそうにない方を、リハビリテーション(訓練であったり、姿勢の調整であったり、食材の調整であったり、環境の調整であったり・・・・・・)によって、食べられるようにする」ことに興味を持って取り組んできました。ですから、私自身は、ある程度は、「この患者さんは、これ以上色々頑張っては見ても、口から十分量を食べることは難しいであろう」という診断をつけることができます。あるいは、「しっかり練習をすれば口から食べられるようになりそうだが、1ヵ月以上はかかりそうである」といった、見通し、をつけることもできます。

どの分野でも同じでしょうが、こうした「診断」をしようと思えば、ある程度経験を積んで勉強をすることが必要ですが、残念ながら、細分化された今の医者の「専門領域」の中で、こうした「摂食嚥下障害」「摂食嚥下リハビリテーション」の診断をする領域は不明確です。あえて言うなら、「リハビリテーション科」かもしれませんが、リハビリテーション科全体の中でも、摂食嚥下障害は特殊な一分野ですので、必ずしもリハビリ科の医者が診断できるとは限らず、また、リハビリテーション科の医者そのものが、一般の病院にあっては非常に珍しい存在です。

私自身は、本来、総合診療・一般内科、といった立ち位置で仕事をしているつもりではありますが、好むと好まざるに関わらず、長らく取り組んできたことに関して、この分野に関して「専門性」が身についてしまった、ということなのです。

さらに言えば、ここでは「摂食嚥下障害」という言い方で、「食べられない」ことを採り上げていますが、もう少し広く考えれば、例えば、食道癌のために食べられない、とか、高齢になって食べられない、認知症のために口を開けてくれないので食べられない、風邪をひいた後食欲がなくて食べられない・・・・・・等々、食べられない理由は、「障害」の為ばかりではありません。これら個々の疾患については、それぞれの専門科で治療をすることになり、そこで、はたして長期的に「食べられない」のかどうか、という判断をされることになります。もともと、「食べられない」ということは、それだけで病名になるわけではなく、様々な理由を背景とした、「状態」に過ぎないわけですから、色々な専門科が関わってしまうことは避けられないことかもしれません。

その他、これまで「食べられないこと」の診断や治療に関わっている、と思われた「科」を列挙してみますと、

・耳鼻科

・歯科口腔外科

・消化器科(消化器内科・消化器外科)

・一般内科

・老年科

 ・・・・・・

などなどが挙げられます。皆、部分部分では、「食べられない」ことに関わりを持つ「科」であることは確かですが、そこから先は、個々の医者が、この問題についてどこまで勉強しているか、個人差の問題にもなってきてしまい、「食べられない」という問題を総合的に相談するために、どの科がよいのか、ということは、なかなか一概には言えないのです。

 ご自宅で、婆ちゃんがあんまり食べられない、むせるようになった、というときに、誰に、何科の医者に相談したらよいのでしょうか?

 ・・・というのが実状ですから、さて胃ろうを造る、となった場合に、誰がその診断・決断をするのか、ということも、実は曖昧なままなのです。

 これまでのところ、内視鏡を使って胃ろうを造る、ということに関しては、多くの場合、内視鏡を操る消化器内科や、あるいは消化器外科が担当していることがほとんどです。しかし、あくまで消化器科の医者は、「胃ろうを造る」ことをしているので、「食べられない」ことの診断をしているとは限りません。

例えば、次項でも触れますが、施設入所をしている方の場合に、施設の介護職員が、施設担当の医者に、「この方、食べるのに大分むせるんですよね」などと報告をすると、その医者も、自分では対応のしようがないので、総合病院の消化器科に「胃ろうを造ってください」という紹介状を書く。それを受けて、消化器科の医者が胃ろうを造る、というようなことが、あちこちで行われてきました。誰も、「食べられない」という診断をしたわけではなくても、胃ろうを造ることは病院の現場では行われる可能性があるわけです。

 

2)高齢化社会の進行に伴って・・・・・・「高齢者」「認知症」の方に、胃ろうを造るべきか?

 おそらくは、いわゆる「胃ろう問題」というのは、具体的な言い方をするなら、「認知症の方に胃ろうを造るべきか」とか、「100歳の方に胃ろうを造るべきか」、という設問に帰着するのでしょう。現実に、日本の場合には、非常に多くの「超高齢者」「認知症」の方々に胃ろうが造られ、老人施設や療養病院に行けば、ほとんどの方が寝たきり胃ろうの方、ということが珍しくありません。そうした現状に対して、NHK番組を契機にして、「老後の生き方」、「美しい死に方」、「高齢化社会への対策」といった問題について、胃ろうということが一つのわかりやすい攻撃対象になった、ということなのだろう、と思います。

 老人施設や療養病院が、寝たきりの方ばかり、というのは、何も今始まったことではありません。昔から、老人ホームのことは「姥捨て山」と揶揄的・自虐的に言われていたし、老人ホームは胃ろうが一般的になる前から、自分では意思表示もできなくなった高齢者が、経鼻経管(鼻から管を入れて流動食を流し込む)を受けていました。

女性(嫁)が高齢者の介護をすることが一般的だった時代から、女性が解放され社会進出をし、高齢者はますます他人(施設)の介護に任されるようになった。時代は変わっても、実際に介護をしない家族の、「死なせたくはないけれど、自分では介護はできない」という意見が尊重されて、本人の意見は不明なまま、どんどん胃ろうを造ってきた。これはもう、この国の風土であり、文化であるのでしょう。是も非もありません。「少しでも長く」という願いには嘘はありません。

時にブームのように、「これでいいのだろうか」と誰かが言い出す。ひとしきり国民的にも議論になり、自分や自分の親の身の上に引き比べて皆が少し考え、また忘れていく。そうしたことが繰り返されてきたのでしょう。今回は、20年前に新しく開発された、「内視鏡的胃ろう造設」という技術になぞらえて、「我々は、どんな状態になっても生きたいか、生き続けたいか、いつ『もういい』と言うべきか」ということを、皆が考えているのだろう、と思います。

 

認知症の方に、胃ろうを造るべきか?

 さて、上に挙げた「認知症の方に胃ろうを造るべきか?」という問題について、少し考えてみましょう。

おそらくは、こうした問題設定自体に、多くの日本人は違和感を感じるのではないでしょうか。字面だけをみても、いかにも「差別的」である、と。認知症の方の人格を否定するのか、と。

実際、机上の問題としてこうした問題の立て方をしても、多くの方は答えられないでしょう。曰く、「認知症、といっても程度による」、とか、「認知症、といっても年齢にもよる」、とか、「認知症、といっても、家族の受入れによる」、とか。・・・

一方、欧米では、「法的」ということでは無論ないですが、様々な「医学会」のレベルでは、認知症患者に対して胃ろうを造ることには否定的な意見が優勢であり、実際に日本のように、特に高齢者の認知症患者に対して胃ろうは造られていないようです。

こうした、日本と欧米との差については、ここでは深入りせず、単に「文化的な差異」かな、と言うにとどめておきますが、一医師として言うならば、そもそも病名にとらわれる問題でもないような気がしています。

医師の診療のプロセスは、理想的に言えばこうです。

(1)    目の前の患者個人に対して、必要な診察・検査等を行い、「口から食べられない」ことについての診断を下す。

(2)    口から食べるための適切な治療(投薬・指導・リハビリテーション等)を行って、それでも口から(十分)食べられない、と判断されれば、胃ろう造設を考慮する。

(3)    胃ろう造設にあたっては、本人、あるいは本人の判断が難しいときには家族等に、その診断と治療について十分な説明を行い、同意を得る。

 

 これは、胃ろう造設以外にも、どんな治療においてもある程度共通するプロセスでしょう。診療、としては、当たり前のことなのです。診断をして、説明・同意を得て治療をする、ということは。それは、欧米であろうと日本であろうと、病名が何であろうと、本来変わりはない。各医学会が出している「ガイドライン」は、医師が診断や治療を決定する際の助けになるものですから、必ずしも専門科ではない医師であれば余計にそれらを参照する可能性も多く、個々の診断に影響は与えるでしょう。

 しかし、胃ろうの場合には、こうした正当な診療プロセスを実行することが甚だ難しい場合が多い。・・・まさにそのことが、胃ろう問題、として採り上げられている理由でしょう。

1)については、既に述べたように、そもそも口から食べられない、ということについて、きちんと診断を下す立場の医者が乏しく、そもそもその専門性にも揺らぎがあります。

2)については、脳梗塞後、や、口腔癌手術後、など、急性疾患のあとに専門のリハビリ訓練を受ける機会を得られればよいのですが、長期施設入所中の食事摂取不良や、認知症による食事量低下、の場合には、そうした適切な「治療」を受けられる機会は乏しいと言わざるを得ません。

3)についても、本人に説明をして理解を得られ、同意が得られれば、治療に関してまったく問題はないのでしょうが、超高齢者・認知症、等、本人の同意が不明で、説明も理解されないケースが多く見られます。

繰り返しますが、これら(1)〜(3)のプロセスが達成されていれば、胃ろうを造ることには本来まったく問題はないはずです。日本で問題となっているのは、このプロセスが達成されない場合、すなわち、「超高齢者」や「認知症」に代表されるようなケースが圧倒的に多数であるからに他なりません。

これはまったく私見ですが(そんなに間違っているとは思いませんが)、欧米の場合には、特に(3)の、(主として本人の)同意、ということを、非常に重要視している、そのために、胃ろう造設のみならず、「認知症」をそもそも様々な、特に危険を伴うような治療(手術など)から省くベクトルが存在するのだろう、と思っています。こうしたことを、認知症の患者に対する「尊厳」と見るのか、「差別」と見るのか、は、まさに文化の問題、としか言いようがないように思うのですが・・・

例えば、欧米(と一緒くたにするのもどうかとは思いますが)では、癌の宣告はまず本人に行うのが一般的、と言われますが、日本では相変わらず家族に宣告した上で本人に伝えるかどうかを相談したりすることがまだ多く見られる。ですから、日本では、家族の意見を優先して胃ろうを造設する、ということは、「当たり前に」行われているのです。

 

A   2014年診療報酬改訂と胃ろう

 2014年の診療報酬改訂は、「在宅への誘導」と、いうテーマで語られることが多く、関連して胃ろうに関してもいくつかの改訂点が見られました。以下、列挙してみますが、面倒な方は飛ばしてくださって結構です。

 

1.胃瘻造設術

 胃瘻造設術の評価を見直すとともに、胃瘻造設時の適切な嚥下機能検査に係る評価を新設する。

【胃瘻造設術】 10,070点 → 6,070

[算定要件]

1 胃瘻造設術を行う際には、胃瘻造設の必要性、管理の方法及び閉鎖の際に要される身体の状態等、療養上必要な事項について、患者及び家族への説明を行うこと。

(新規)

2 胃瘻造設後、他の保険医療機関に患者を紹介する場合は、嚥下機能訓練等の必要性、実施するべき内容、嚥下機能評価の結果、家族への説明内容等を情報提供すること。

[施設基準]

 以下の1又は2のいずれかを満たす場合は、所定点数による算定とする。満たさない場合は、所定点数の80/100に相当する点数により算定する。

1 頭頸部の悪性腫瘍患者に対する胃瘻造設術を除く年間の胃瘻造設術の実施件数が、50件未満であること。

2 頭頸部の悪性腫瘍患者に対する胃瘻造設術を除く年間の胃瘻造設術の実施件数が50件以上かつ、下記のア及びイを満たすこと。

 ア 胃瘻造設患者全例に嚥下造影又は内視鏡下嚥下機能評価検査を行っていること。

 イ 経口摂取以外の栄養方法を使用している患者であって、以下のa又はbに該当する患者(転院又は退院した患者を含む。)の合計数の35%以上について、1 年以内に経口摂取のみの栄養方法に回復させていること。

 a. 新規に受け入れた患者で、鼻腔栄養又は胃瘻を使用している者

 b. 当該保険医療機関で新たに鼻腔栄養又は胃瘻を導入した患者

 

(新) 胃瘻造設時嚥下機能評価加算 2,500

[算定要件]

1 胃瘻造設術を所定点数により算定できる保険医療機関において実施される場合は、所定点数による算定とする。それ以外の保険医療機関に於いて実施される場合は、所定点数の 80/100 に相当する点数により算定する。

2 嚥下造影又は内視鏡下嚥下機能評価検査を実施し、その結果に基づき、胃瘻造設の必要性、今後の摂食機能療法の必要性や方法、胃瘻抜去又は閉鎖の可能性等について患者又は患者家族に十分に説明・相談を行った上で胃瘻造設を実施した場合に算定する。ただし、内視鏡下嚥下機能評価検査による場合は、実施者は関連学会等が実施する所定の研修を終了しているものとする。

3 嚥下造影、内視鏡下嚥下機能評価検査は別に算定できる。

4 嚥下造影、内視鏡下嚥下機能評価検査を他の保険医療機関に委託した場合も算定可能とする。その場合、患者への説明等の責任の所在を摘要欄に記載することとし、受託側の医療機関は、施設基準(関連学会の講習の修了者の届出等)を満たすこと。

 

 

2.摂食機能療法

 高い割合で経口摂取可能な状態に回復させている場合の摂食機能療法の評価の見直しを行なう。

摂食機能療法

 (新) 経口摂取回復促進加算 185

[算定要件]

1 鼻腔栄養又は胃瘻の状態の患者に対して、月に1回以上嚥下造影または内視鏡下嚥下機能評価検査を実施した結果に基づいて、カンファレンス等を行い、その結果に基づいて摂食機能療法を実施した場合に、摂食機能療法に加算する。

2 治療開始日から起算して6月以内に限り加算する。

3 実施した嚥下造影または内視鏡下嚥下機能評価検査の費用は所定点数に含まれる。

[施設基準]

1 新規の胃瘻造設患者と他の保険医療機関から受け入れた胃瘻造設患者が合わせて年間2名以上いること。

2 経口摂取以外の栄養方法を使用している患者であって、以下のア又はイに該当する患者(転院又は退院した患者を含む。)の合計数の 35%以上について、1年以内に経口摂取のみの栄養方法に回復させていること。

 ア) 新規に受け入れた患者で、鼻腔栄養又は胃瘻を使用している者

 イ) 当該保険医療機関で新たに鼻腔栄養又は胃瘻を導入した患者

3 摂食機能療法に専従の言語聴覚士が1名以上配置されていること。

4 2の基準について、新規に届出を行う場合は、届出前の3月分の実績をもって施設基準の適合性を判断する。

 

3.胃瘻の抜去について これまで評価が不明確だった、胃瘻抜去術の技術料を新設する。

 (新)胃瘻抜去術 2,000

 

4.胃ろうチューブの交換について

経管栄養カテーテル交換法 200

経管栄養カテーテル交換法は、胃瘻カテーテル又は経皮経食道胃管カテーテルについて、十分に安全管理に留意し、経管栄養カテーテル交換後の確認を画像診断又は内視鏡等を用いて行った場合に限り算定する。なお、その際行われる画像診断及び内視鏡等の費用は、当該点数の算定日に限り、1回に限り算定する。

 

 

 ・・・・・・以上、私なりに方向性を要約すると、

1)病院で胃ろうを造っても、前より安い点数しかあげませんよ。どうしても造るという病院では、きちんと嚥下造影検査など、食べられないことをきちんと診断した上でやること。それから、作った後もちゃんと食べられるように訓練をすること。そうしないともっと点数を下げますよ。

2)胃ろうを造ったあとでちゃんと訓練をして口から(だけで)食べられるようになったら、いい点を上げますよ。それで胃ろうを抜くことができたら、今までは点をあげなかったけどこれからはあげますよ。

3)胃ろうチューブを交換する時には、きちんと病院で、レントゲンや内視鏡を使って安全に交換した時だけ、点数をあげますよ。

 

ということですね。

 

  肯定してみよう

今回の診療報酬改訂を、肯定的な目で眺めてみると、実は、前項で私自身書いたような、「診療の正当なプロセス」に則った方向になっている、と言えるでしょうか。要は、これまでやっていなかったかもしれないけど、胃ろうを造るには、ちゃんと嚥下造影などして、「食べられない」診断をしないとだめだよ、しかも、作った後でも訓練で食べられるようになる人もいるので、ちゃんと訓練をしよう、と。

表面的にみれば、もっともな方向、と言えるかもしれません。

 

  批判してみよう

表面的、ではなく、裏側から見てみると、次のようなことが言えます。

まず、「嚥下障害」に長く取り組んできた立場からすれば、「嚥下造影」や「嚥下内視鏡」は、「食べられない」方の、必須、の検査、というわけではありません。

むしろ、我々が胃ろう造設に関して深く悩むケースは、上述したように、少量は食べるけど、ほとんど口をあけてくれない認知症の患者、であったり、夏や冬になると食事量ががたんと落ちる、といった(超)高齢者であったり、なのです。こうした方々については、嚥下造影が必要とされるような、狭い意味での「嚥下障害」よりも、食事量不足、が問題であり、それは嚥下造影などの検査よりも、食事現場に関わったり、看護師や職員に食事介助指導を行ったり、といったことのほうが重要だったりします。ですから、今回の改訂によって、「点数がもらえるなら、必要ないけど、嚥下造影を行う」という患者が増えないといいなあ、と思います。認知症で、理解が得られにくい方に嚥下造影検査をするのも苦痛なので。

次に、嚥下造影や訓練を行える、リハビリの充実した施設においては、短期間に集中して訓練を行って、胃ろうにまで至らずに経口摂食が達成できる患者も多くおり、そうした患者には、そもそも胃ろうの必要は乏しいでしょう。実際、私は脳梗塞急性期を長く診療してきましたが、通常経口摂食が可能となる方は、発症当初から関われば、1週間〜長くても2週間でほぼ解決します。よほど重度の方で、早期に意識障害が続いたりする方だったり、球麻痺など特殊なケースでは長くなることももちろんありますが。

ただ、リハビリテーション優位(寄り)の報告などでは、「できるだけ早期に胃ろうを造って、経鼻経管のない苦痛のない状態で訓練を行って、食べられるようになったらさっさと胃ろうを抜く」ということを推奨している人々がいることも事実で、そうした言い分には一定の正当性はあるでしょう。ただ、そんなことができる病院、要は、救急から胃ろう造設、リハビリテーションまで全て充実して兼ね備えた先端的大病院はごく僅かで、多くの場合には、胃ろう造設の前にしっかり訓練をして短期に食べられるようになる、ことを目指しているのが一般的でしょう。今回の改訂は、そうした大病院派の意見が通った、ということでしょうか。

いかにも手厚いですよね。早く胃ろうを造って、しっかり訓練をして、1ヶ月くらいで胃ろうを抜く。そうすると、いっぱい点数になります。抜いたり造ったり、を繰り返せば、よりたくさん点数がもらえるわけですね。

 もう一つ。訓練をして、口から食べられるようになった方、に対してのご褒美の条件が、「(胃ろうや経鼻経管を入れた患者)合計数の 35%以上について、1年以内に経口摂取のみの栄養方法に回復させていること」というのも、これまた、かなりハードな条件です。私、かなりまじめにこの問題には取り組んできたつもりですが、上に述べたとおり、訓練に早期からまじめに取り組めば、管や胃ろうを入れる前に口から食べられるでしょうし、胃ろうの結論になってしまった方に訓練をして35%、というのは、何だかよっぽど特殊な病院でも念頭に置いているのではないか、あんまり地方の「普通の」病院のことは考えてないのではないか、という感じがします。これもやっぱり、「点数のために、とりあえず23日だけでも経鼻経管を入れといて、明日から口から食べようか」なんてことにならないといいなあ、と思います。

 批判的に、ってなると、何だかいくらでも出るなあ。・・・とりあえず、もう一つだけ。最後にしときますが、私は、長らく在宅訪問診療に携わっていますが、在宅でほぼ寝たきりで、通院が困難だから訪問診療をしている、で、胃ろうが入っている、という方はたくさんいるわけです。そうした方の多くは、くどいですが、通院困難なわけですが、「胃ろう交換の時だけは、何とかして病院に来なさい」てなことを言われ続けてきたわけです。

何でか?在宅で胃ろう交換しても、何にも点数もらえないから、医者はやりたくないんです。

・・・で、格好つけるわけじゃないけど、私は自宅で胃ろう交換します。ほめられるもんでもないのかもしれないけど、本来通院困難で訪問診療しているわけですから、自宅でできることはしてあげたい。でも、「在宅訪問診療へシフト」と言いながら、これまでずーっと、在宅での胃ろう交換には点数がついたことがありません。その上、今回、「病院でレントゲンや内視鏡を使って交換したら点数上げますよ」と言われると、何だかとっても悔しい気はします。結局愚痴ですけどね。

 

 

 ・・・・・・というわけで、結局全体として、批判ばかり多くなってしまったようですが、なんでかな・・・・・・。

 正直に書いたつもり、なんですが、総論で言うと、胃ろう全体に関しては、机上のお話としては真っ当な面もあるものの、現場の立場では、ある特定の、しっかりした病院でなければ点数もらえないみたい。ましてや、在宅の胃ろうについては別に考えられてないようです。

で、よく言われているように、@で議論したような「(超)高齢者や、認知症」といった、狭い意味での(改善する可能性のある)嚥下障害、ではないような方に対しての胃ろう造設は、しない方向に誘導されている、という、まあ、欧米型、と言いましょうか、そういった改訂であるようです。

 

 

B   胃ろうについての思い

 以上、非常に雑駁ですが、「ここ数年〜本年の診療報酬改訂」の胃ろうに関する話題についてつらつら綴ってみました。

 最後に、非常に私的な思い、を記して、本稿を終えます。

 繰返しにしかなりませんが、私は、胃ろう造設、が、医者の行う医療、医療技術として、特殊なものだと考えているわけではありません。癌の手術、であったり、風邪薬の処方、であったり、と同様、必要な診断・検査を行って、治療スケジュールを考えて、それでも必要と判断されれば、きちんと説明をして同意を得て、胃ろうを造る、という治療を行えばよい、と思います。ですから、「認知症だから胃ろうはだめ」とか、「100歳だから胃ろうはだめ」とか、と、短絡的にいうことは本来できないと思いますし、個々の患者さんについてきちんとステップを踏んで、ご本人・ご家族と相談をして、造る方は造る、造らない方は造らない、ということでよい、と思います。仮にまったく同じ年齢、臨床的に同じ状態の方が二人いたとしても、本人の希望であったり、家族の状況、取り巻く環境等々によって、一方は胃ろうを造り、一方は造らない、ということも、それはありうることだと思います。

 ただ、自分は胃ろうが好きか嫌いか、というレベルで言うなら、好きではない、です。もっとも、好き、という方も少なかろうとは思いますが。

たまたま私は、高齢者医療とか総合診療、在宅医療、といった分野で多く仕事をしてきて、摂食嚥下障害・胃ろう、といった問題に、専門、といっていいほど首を突っ込んでしまったわけですが、私が主にみてきた患者さんは、在宅で、あるいは施設で、寝たきり、あるいはほぼ寝たきりで、日がな天井を向いたまま胃ろうから栄養が流し込まれる、という状況の方が多かった。

もちろん、そうした患者さんたちでも、個々に見れば、「幸せ」「不幸せ」、様々な思いがあろうとは思いますが、自分がそうした状況を迎えることになると仮定した場合、胃ろうを造りたくはないな、と、そうは思っています。・・・これは、繰り返しますが、私の、それも、今の時点での、個人的な思い、です。

そのとき。年をとって、食べられなくなったとき、に、私も含めて、それぞれの方は、それぞれに判断をすればよい、そう思います。が、少なくとも、医者としては、「胃ろうを造らなくてもよい」(→そのまま亡くなる)という選択肢は、医者の側からもっと提示してよい、とは考えます。

これまでは、ともすれば、医者の方も、「食べられないなら胃ろうを造る」と、選択肢抜きで考えていたかもしれません。しかし、あくまで、診療報酬改訂の誘導、などはさて置いて、それぞれの患者さんの選択として、食べられなくなったときに、「胃ろうを造らない選択」が、非難の対象にならないように、と願います。